なぜだか知らないが

電車に乗る前から私は異様に眠たくて、結構朦朧としながら電車に乗ったのだが、目が覚めると乗ったのと同じ駅に電車はついていて、時間だけが二時間ほどすぎていた。
なぜこんなにねむいのかよく分からないのだけど、今も現在進行中で眠いので、気がついたら二時間後にまた同じ駅かもしれない。

寝ている最中にも頭の中は奇妙に蠢いているもので、なんだか色々考えていた。というわけで、久しぶりにこうしてブログをアップしていたりする。

今考えていることは二つ。
一つ目は、インタラクティブな刺激がたりないってこと。ミスったら即死ぬようなヒリヒリした刺激を感じる事がほとんどない。
バイクに乗ってたときは割とそういう感覚あったんだけど、今はバイクに乗ってねーからな。
多分、というかこれは論理の飛躍だが、俺はシューティングゲームを求めてるのだ。覚えゲーじゃなくて、誤操作がそく死に繋がるようなシビアなゲーム。

二つ目は湾岸ミッドナイトについて。
一言でいうと首都高を爆走する走り屋のマンガ。こう書くと頭が空っぽになる類のマンガのように聞こえるかもしれないが、不思議な含蓄がある。
大体車マンガというとレースそのもののシーンよりもテクニックや人間ドラマのシーンが多いのだが、湾岸ミッドナイトが他の車マンガと違うのは、人と人との人間ドラマというよりも、人と車(もしくはメカ)の車ドラマが展開されていく所だ。

登場人物はひたすらパワー(馬力)を求めるチューニングを否定しながらもパワーへの郷愁をもとめるあまりついついパワー重視にしたり、「このコースで走るなら半分の馬力で十分てかそっちの方が速い」、とか、「上から下までスムーズに回る…当たり前かもしれなけどなんて素晴らしい仕上がりなんだ」、とか言ったりする。まるで料理マンガのような紹介になってきた。

湾岸ミッドナイトは徹底して機械という媒体を通した人間模様が描かれている。人-機械-人の関係で、人-人の関係が描かれる事はない。つまり、登場人物はみんな不器用すぎて車や機械を間に挟まないとまともに他人とコミュニケーションがとれないのだ。これが面白い。各キャラクターが持つ機械に対する思いが、正直かつプラトニックに溢れている。

一体一の対面で座ってフリートークで「さあお話しましょう」というのは実はかなりキツい向き合う人間に対して相当興味がないとなりたたない。似たシチュエーションに「お見合い」があるが、それだって結局「男女」という媒体や「結婚」という媒体を通して相手とコミュニケーションを取っている。

湾岸が相手とコミュニケーションするための媒体は車(機械)なわけだが、キャラクターはとにかく色々な事を考える。「オイル缶のオイルを最後の一滴まで使い切るにはどうすればいいか」、とか。そう書くと勘違いされそうだが、最後まで使い切る裏技を語るわけではない。最後まで使い切ろうとしたとき何が起こったのかを彼らは語る訳で、真剣に考え抜いた結論は、車以外の部分でも大分当てはまる。

さて、このマンガでもっとも好きな台詞が「過程は見えない」というものだが、何巻の台詞だったか思い出せない。
人の目に見えるのは分かりやすい結果だけで、いきなり凄くなったわけじゃない。捨ててきたものや選んできたものが数え切れないほどあるけど、その過程は本人にしか分からない。
だから目に見える結果だけを真似してもつまんないし、うまく行かないよね、って話。何巻だったか。

最寄り駅についたからここまで。

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