思考的散歩

SFファンとしては少々恥ずかしいが、一九八四年をはじめて読んでいる。
1984年は私が生まれた年であり、少々因縁めいたものを感じていたが、今までスルーしてきた。
ディストピアものなのは知っていたし、ディストピアの重苦しい空気にふれるのもちょっとかったるかったが、まあ、なんとなくだ。

私は技術書や専門書を読むときは必ず小説も持って行くことにしている。前述の本は読んでると疲れるからだ。疲れたら小説を読む。そうしている。
重力波の本と並行して一九八四年を読んでいるのもコテコテのSF野郎みたいでイヤなのだが、まあ、いいだろう。
ライトノベルとかも読めるようになりゃいいんだけど、どうもノリについていけないんだよな。食わず嫌いなのかもしれないが。

とりとめのない事ばかり書いているが、実は結構今行き詰まっていたりする。アイデアが出ない。というと短絡的すぎるので、少しばかり掘り下げるが、今の状態は「基礎的なアイデアはあるが物語として応用するアイデアが思いつかない」という状態だ。
なぜ思いつかないか、なんて問いに簡単答えられれば苦労はないのだが、こればっかりはちょっと身に覚えがある。
ちょっと疲れ気味なのだ。
疲れる、というは考えるという事に対してだ。
小説は物語という体をとるから物語という媒体が持つプロトコルやルールに少なからず引きずられる。その範囲の中で「面白い」と思わせるのがテクニックであり技術なのだが、なんか出てくる考え考えに自分でも既視感があって、「あー、これ昔の作品でやったな」とか結構ある。
そういうのを考えないほどの話を考えたいのだが、それがうまく行かず、疲れ気味というわけ。

そういうときって散歩したりゲームしたり、散文を書いたり、ちょっと視点を変える、見つめる方向を変えるということが有効だったりするだけど、今やってるのはそれ。この散文で気分転換にちょっとなってくれないかな、とかちょっと思う。

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