思考的散歩

SFファンとしては少々恥ずかしいが、一九八四年をはじめて読んでいる。
1984年は私が生まれた年であり、少々因縁めいたものを感じていたが、今までスルーしてきた。
ディストピアものなのは知っていたし、ディストピアの重苦しい空気にふれるのもちょっとかったるかったが、まあ、なんとなくだ。

私は技術書や専門書を読むときは必ず小説も持って行くことにしている。前述の本は読んでると疲れるからだ。疲れたら小説を読む。そうしている。
重力波の本と並行して一九八四年を読んでいるのもコテコテのSF野郎みたいでイヤなのだが、まあ、いいだろう。
ライトノベルとかも読めるようになりゃいいんだけど、どうもノリについていけないんだよな。食わず嫌いなのかもしれないが。

とりとめのない事ばかり書いているが、実は結構今行き詰まっていたりする。アイデアが出ない。というと短絡的すぎるので、少しばかり掘り下げるが、今の状態は「基礎的なアイデアはあるが物語として応用するアイデアが思いつかない」という状態だ。
なぜ思いつかないか、なんて問いに簡単答えられれば苦労はないのだが、こればっかりはちょっと身に覚えがある。
ちょっと疲れ気味なのだ。
疲れる、というは考えるという事に対してだ。
小説は物語という体をとるから物語という媒体が持つプロトコルやルールに少なからず引きずられる。その範囲の中で「面白い」と思わせるのがテクニックであり技術なのだが、なんか出てくる考え考えに自分でも既視感があって、「あー、これ昔の作品でやったな」とか結構ある。
そういうのを考えないほどの話を考えたいのだが、それがうまく行かず、疲れ気味というわけ。

そういうときって散歩したりゲームしたり、散文を書いたり、ちょっと視点を変える、見つめる方向を変えるということが有効だったりするだけど、今やってるのはそれ。この散文で気分転換にちょっとなってくれないかな、とかちょっと思う。

不具合解消せず

wordpressのバージョンアップしたが、ケータイ用の画面でメニューが表示できない不具合は変わらず。
当ブログはレスポンシブル対応してるのでスマホだろうがなんだろうが画面サイズに最適化された画面が表示されるはずなのだが、スマホで見るとシンプルなスマホ用のテーマで表示されてしまう。
スマホ用のテーマを表示しないようにする設定はないものか。

なぜだか知らないが

電車に乗る前から私は異様に眠たくて、結構朦朧としながら電車に乗ったのだが、目が覚めると乗ったのと同じ駅に電車はついていて、時間だけが二時間ほどすぎていた。
なぜこんなにねむいのかよく分からないのだけど、今も現在進行中で眠いので、気がついたら二時間後にまた同じ駅かもしれない。

寝ている最中にも頭の中は奇妙に蠢いているもので、なんだか色々考えていた。というわけで、久しぶりにこうしてブログをアップしていたりする。

今考えていることは二つ。
一つ目は、インタラクティブな刺激がたりないってこと。ミスったら即死ぬようなヒリヒリした刺激を感じる事がほとんどない。
バイクに乗ってたときは割とそういう感覚あったんだけど、今はバイクに乗ってねーからな。
多分、というかこれは論理の飛躍だが、俺はシューティングゲームを求めてるのだ。覚えゲーじゃなくて、誤操作がそく死に繋がるようなシビアなゲーム。

二つ目は湾岸ミッドナイトについて。
一言でいうと首都高を爆走する走り屋のマンガ。こう書くと頭が空っぽになる類のマンガのように聞こえるかもしれないが、不思議な含蓄がある。
大体車マンガというとレースそのもののシーンよりもテクニックや人間ドラマのシーンが多いのだが、湾岸ミッドナイトが他の車マンガと違うのは、人と人との人間ドラマというよりも、人と車(もしくはメカ)の車ドラマが展開されていく所だ。

登場人物はひたすらパワー(馬力)を求めるチューニングを否定しながらもパワーへの郷愁をもとめるあまりついついパワー重視にしたり、「このコースで走るなら半分の馬力で十分てかそっちの方が速い」、とか、「上から下までスムーズに回る…当たり前かもしれなけどなんて素晴らしい仕上がりなんだ」、とか言ったりする。まるで料理マンガのような紹介になってきた。

湾岸ミッドナイトは徹底して機械という媒体を通した人間模様が描かれている。人-機械-人の関係で、人-人の関係が描かれる事はない。つまり、登場人物はみんな不器用すぎて車や機械を間に挟まないとまともに他人とコミュニケーションがとれないのだ。これが面白い。各キャラクターが持つ機械に対する思いが、正直かつプラトニックに溢れている。

一体一の対面で座ってフリートークで「さあお話しましょう」というのは実はかなりキツい向き合う人間に対して相当興味がないとなりたたない。似たシチュエーションに「お見合い」があるが、それだって結局「男女」という媒体や「結婚」という媒体を通して相手とコミュニケーションを取っている。

湾岸が相手とコミュニケーションするための媒体は車(機械)なわけだが、キャラクターはとにかく色々な事を考える。「オイル缶のオイルを最後の一滴まで使い切るにはどうすればいいか」、とか。そう書くと勘違いされそうだが、最後まで使い切る裏技を語るわけではない。最後まで使い切ろうとしたとき何が起こったのかを彼らは語る訳で、真剣に考え抜いた結論は、車以外の部分でも大分当てはまる。

さて、このマンガでもっとも好きな台詞が「過程は見えない」というものだが、何巻の台詞だったか思い出せない。
人の目に見えるのは分かりやすい結果だけで、いきなり凄くなったわけじゃない。捨ててきたものや選んできたものが数え切れないほどあるけど、その過程は本人にしか分からない。
だから目に見える結果だけを真似してもつまんないし、うまく行かないよね、って話。何巻だったか。

最寄り駅についたからここまで。

機動生命体の最新話更新しました。

「機動生命体」

気まぐれで書いているので、少し書いては投稿していくスタイル。今回の更新は309文字。新聞連載みたいな感じでちょこちょこアップしていくような感じにしていきたいと思います。

とりあえず今回の更新は下記。

#0000,0000,1000
砂嵐が吹き荒れていた。一切の汚れも何もかも無に還ってしまったかのように、漂白された光景。
肩からちぎれた右腕に痛みはない。人体で言えば即死に至る傷を負った場合、OASIC(有機プログラム集積回路)が痛覚をブロックする。
再生が始まる。私達の再生はまずは大まかな骨格の隆起から始まる。まるで電波塔のように梁を組み合わせたような骨組みを瞬時に生成した後、余計な部分をそぎ落としていく。純炭素で生成された骨組みにやはり炭素を大量に含んだ人工筋肉を形成し、筋肉の中を針金ワイヤーのような太く硬い神経と血管が走る。
失った頭部の半分も同じプロセスで回復を初めているはずだ。
私の意識は体の複数に分裂している。細胞のひとかけらまで、私は私だ。

てな感じです。

なんか新しい小説はじめました「機動生命体」

あー、なんかダメだ、意味もなく悲しくて体を動かす気力が湧かない。間違いなくこれはうつの症状。なんでこんな気持ちに苦しめられねばならぬのか……

気まぐれでネットに乗っける小説をポチポチと書いている。あまり難しく考えず、書きたいように書く。取っつきづらく読みづらい作品だと思います。昔の私の作風ってこんなんだったよな、と思った。

『機動生命体』

以下あらすじ引用。

エントロピー増大の加速により、あらゆる物質を一瞬で老化させ、崩壊させる“プロジェリア”。
あらゆる観測手段を崩壊させるため、人類はその姿をまだ確認できていない。
プロジェリアに対抗するため、人類は崩壊を上回る速度で生まれ続ける兵器、“機動生命体”を開発した。
開発は頓挫し、機動生命体の廃棄が決定したが、廃棄寸前に首都東京がプロジェリアの侵攻を受けたため急遽機動生命体の実戦投入される事となる。しかし“彼女達”は捨て石に過ぎなかった。

人間が決して足を踏み入れる事ができない場所で、彼女達は殺され続け、生まれ続ける。

不定期連載です。完結するか分かりません。

だってさ。
気が向いたら読んでいただけると幸いです。

お前のファンいねーから

酔っ払うとここでなんか書きたくなってくるな。
文脈はまあシリアスではないのだが、ある男から「あんたのファンなんかいねーよ」と言われる。言われた時、脳裏にゲームボーイ的な効果音でズボシッ、的な音が聞こえた。
まー、俺のファンなんかいるんだっけっていうのは前々から疑問に思ってたよ。まあ、量子力学的にいうと、私はファンの存在を確認できていないので、波動関数は収束しないのでファンがいるかどうかは不確定事項なのだ、と心の中で反論しておく。

唐突にコロリベの各話のタイトルについてかたろうと思う。
タイトルの一覧はこちら
「殺ス・リベレーション」

マニアックな話で恐縮だが、コロリベの各話のタイトルはSTGの楽曲から拝借している。

ほとんどは、狂ったタイトルとゲームBGMに関していうと異様に長い(これはゲームシステムの絡みもある)レイクライシスからの引用。

次点では、気が狂いそうなほど好きなゲーム、レイフォース

そのほか、レイストーム、メタルブラックやダライアス外伝や、R-type LEO、R-type Final、アインハンダー、斑鳩、レイディアントシルバーガン、怒首領蜂 大往生、ダライアス・バーストとかそのあたりからちょいちょい拝借している。
どれもこれも、破滅の臭いが漂ってくる陰鬱なゲームばかりだ。クリアしても大体主人公が死ぬか地球が滅ぶ。
少し前にSTG大御所の旧○○社の開発スタッフを取材したときに、「あなたの作ったゲームで人格形成に多大な影響を受けました!」と言ったらどん引きされたことを思い出す。そんな事言われてもそりゃ困るよね。

今回なんでSTGの音楽を取り入れたのかというと、まあ、いくつか考えている事があった。
洋楽を引用した作品は割とあるが(パッと思いつくのはジョジョの奇妙な冒険やBLEACHだろうか)、ゲーム音楽を引用した作品なんてほとんどないなぁ、という事が一点。
STGの音楽はかなりポエティックなタイトルが多い。とは言っても、TAITO社の音楽チームZUNTATAにかなり集中しているのだが。STGが下火になって長い時間が経つ。上記で取り上げた楽曲も発表されたのは約20年ほど前だ。ただ風化されていくのもなんか忍びない。こんな弱小の物書きかもしれないが、フォロワーがいてもいいじゃない、という気持ちが二点目。
三点目は、コロリベの物語は自分を研ぎ澄ましていく剣士達の話なのだが、その剣士達の姿とSTGをプレイするシューターの姿が私の中で重なって見えた部分があったからだ。三点目に関しては特に読者から共感を得にくいだろうと思うけど、私はそう思ったのである。繰りかえすが、私はそう思ったのである。


追記:

コロリベの各話のタイトルでググっても出てこないのがいくつかある。
まあ、もし興味があって曲を聴いてみようという人のために手がかりを残しておこう。

『作り笑いがとても綺麗ね』
これはダライアス外伝のアレンジアルバム『DARIUS外伝 -THE LAST KISS-』のVisionnerzの曲中台詞から。

『We Create MentalAtmosphere』
これはメタルブラックのアレンジアルバム『METAL BLACK -The First-』のExposeの曲中コーラスから。

※2面曲Dual Moonをベースにしたライブ用の編曲なのでExposeとはかなり異なっているが、コーラスとして流れる。

ググってもろくに出てこないと寂しい限りである。

帰還

故郷のランドスケープはまるで降りしきる雪とつもりきったあとの雪景色のごとく変化する。
分刻みの映像では美しい変化だが、総体としてはほとんど変化のない光景が繰り返され、地にたまる澱で少しずつ、あらゆるものが埋もれていく。

故郷の人はのべからく未来ではなく過去にとらわれており、彼らが求めているのは過去の延命であって、中学生は20年年をとった、中学生のままでであり、ただ過去を懐かしむためだけに20年来の友人と馬鹿話をかわし、それ以上を求めない。
小難しい話はご無用、酒がまずくなる。だが、同じ酒を何年も飲み続ければ飽きはしないか。

新しい話がしたい。同じ話は飽き飽きだ。だが新しい話がどこにつながり、彼らに役に立つのかはえ分からない。彼らには過去こそが大事で未来などは必要ないのかもしれない。それどころか、あまりにもぶれない彼らを見ていると、おかしいのは自分自身ではないかと思えてくる。

久しぶりに故郷の友人と話と話して、彼らが過去の思い出話しかしないことに息が詰まり、つい愚痴をこぼしてしまいそうろう。酔っ払っているせいか、どこかポエムのような文体だ。埼玉へ戻るための電車の中でいまこれを書いている。

バットマンvsスーパーマンを見る

レンタルが始まったので、借りて見る。

監督はザック・スナイダー。制作総指揮はクリストファー・ノーラン。音楽はハンス・ジマー。
タイトルだけ聞くと、エイリアンVSプレデターやフレディーVSジェイソン等の馬鹿馬鹿しいアクション映画を想像するが、本作は画面も暗く、ハンス・ジマーの緊迫感漂う雰囲気のせいで、終始重苦しい。しかも上映時間は150分程度で、長い。重いし長い。疲れる。

やや唐突感があるワンダーウーマンやドゥームズデイの登場などはDCの知識があれば問題なく楽しめるのかもしれないが、無知な私は置いてきぼり感が強かった。

全体としては、やや楽しめないという感じなのだが、その中でもバットマンのキ○ガイっぷりが突出しており、彼のいかれた行動と台詞が香辛料のようにビリビリと効いてくる。

(バットマンがスーパーマンと敵対するのを止めるように味方から説得されるシーン)
「彼は敵ではない!」
「1%でも敵になる可能性があれば敵だ!」

すげぇ、言い切った。この世のほとんどの人間が敵だと公言しているようなモノ。ヒーローの思考回路だとは到底思えない。

そしてスーパーマンの弱点である“ある物質”を手に入れるために輸送業者を襲い、機関銃でトラックを蜂の巣にし、トラックを襲うのをスーパーマンに邪魔されると今度は保管場所を襲撃し、警備員を軒並み半殺しにして“ある物質”を強奪する。
劇中、二度ほどバットマンが悪夢にうなされるシーンがあるが、あんなに何度も何度も悪夢にうなされているようではろくに睡眠がとれていないに違いなく、もはや正常な思考ができなくなっているのではないだろうか。立派な狂人である。

バットマンの狂人ぶりを楽しむ映画だと思う。

42種類のSHIGOKIRU

サイトの見た目があまり気に入らなかったのでcssをいじくる。cssの知識はど素人レベルだが、web調べて試行錯誤してればなんとかなるもんだ。
さて、大きな変更点として、背景画像とメニューバーの色がサイトを開いた度にランダムで変わるように設定した。(やり方はあまりにも力業すぎてお話するのが恥ずかしいレベルだ。需要があれば書くかもしれないが……)

背景画像は現在7種類。メニューバーの色は6色。7*6=42。42種類のSHIGOKIRUがお楽しみいただけることとなりました。更新してみると、レアな組合せが……、まあ、どうでもいいですよね。

模様替えってあるじゃないですか、色変えたりして雰囲気変えたりとか。
あれ、めんどくさいんですよね。そんな思い出した頃にちまちま設定変えるとかもうめんどくてめんどくて。
だからコンピュータにやってもらう事にしました。色と画像が変わってれば、まあ、パッとみた印象も変わるでしょう。
基本コンピュータでできることはコンピュータでやってほしい。なんなら小説書くのもコンピュータにやってほしい。あらすじと設定だけ渡して、コンピュータが書いた話をダメ出しして編集して、と。楽だよねぇ。

えー、色と画像は順次増やしていくつもりなので、気がついたら1000種類くらいのSHIGOKIRUができるようになるかもしれません。是非お楽しみに。

case

前回自信満々にコードを乗っけたが、ああいうリスト置き換え型のファンクションはif文ではなくcaseで書いた方がスマートだと思った。この辺が独学のダメなところだ。

半年程度連載していた小説を完結させた。これからはネット以外のところに執筆範囲を広げていくので、作品の更新頻度は少なくなると思う。

職場に後輩がやってきた。教育がかりってわけでもないが、色々と教えた。「ファームウェアって何ですか?」
質問がド直球で良い。こういうストレートな質問は自分の根底の部分を揺さぶってくる。自分の知識や思考レベルが試されているという感じだ。こういういう機会がまったくないと、知識レベルがどんどん低下してしまう。
で、ファームウェアって美味しいの?

どうもSTGのレイフォースが最近やりたくてうずうずしている。しかし家の環境ではレイフォースができないので秋葉原HEYに行くしかないのだが、面倒だ。
レイフォースの原案を考えたプログラマーは青森出身の方らしい。雪が降るような静寂な感じが、レイフォースの全編に漂っているのはそのせいだろうか。