レバーと書いて紙と読め

前回の記事の続き。
酒場の〆にメガ角ハイボールとレバカツを頼む。メガ角ハイボールはため息が出るほどでかいし、レバカツはタイトルの通りである。紙みたいに薄いレバカツってことだよ、言わせんな。

30分で書く即興小説について思う。aiharaは凄いと言っていたが、30分即興小説は楽なのだ。理由をのべよう。まずはとにかく30分で書く、ということに限る。人間30分でなにができるだろうか。30分あれば大体昼飯が食える。仕事で言えば定型フォームで内容が決まってれば報告書くらいは作れるだろうし、アニメ一話分が見れるね。
そんな短時間でお話をつくるなんて凄い、と思うかもしれないが、物語とはパターン化されているものだ。慣れれば短時間で話を作るのは決して難しくはない。ハードルというか、評価があまくなるのは、「30分で書かれた」という点においてだ。人間30分でできることはさほど多くはない。その制約の中で話を作れば自ずと評価は甘くなるのだ。
例えば、味は同じで一分で作れるカップ麺と三分かかるカップ麺があれば、みんな一分で作れるカップ麺がすごいというだろう。30分小説は物語を作るのには時間がかかるという先入観を利用した一種のトリックなのだ。

小説の面白さの指標というものは人それぞれだが、書き手、つまり作家の立場で読み手の感想は確実に左右される。有名作家なら冗長な風景描写も許容されるが、無名作家なら冗長さは忌避されるものである。30分で書いたという前提条件があれば、下手な小説でも許容されるが、半年かけた話ならそうはいかない。

他の人がどう書いてるかは知らないが、私は話に説得力をもたせるために登場人物や設定の細かいところまで考える。考えた設定をすべて描写するような事はしないし、それが面白さにつながるかはわからないが、私はそうしている。そうしたところで評価されるのはごくごく稀な話だ。
つまり、書けばとりあえず評価される30分小説は私の中では楽な創作にカテゴライズされている。大したことでは全くない。小説の面白さは文体や文章だけに限らない。そこには様々な要素があり、あたかも寸胴鍋で何時間も出汁を煮込むラーメン屋のごとくである。
しかしではあるが、時間をかければ面白くなるわけではないのが難しい。

一人で飲み屋の悩みは深い。

昔はよく一人で居酒屋に入って夕飯がてらちょっと飲んで家に帰ったもんだ。
それがエスカレートしてくると休みの日に昼から酒場で飲んだりしはじめる。一人できているわけだから、当たり前に輪をかけて当たり前なもだが、会話をする相手がいない。
酒場に一度入れば牛丼屋じゃあるまいし、滝のような勢いで酒を飲み干すこともできないわけで、まぁ、一時間くらいは店にいることになるわけだ。
はっきり言って、やることがない。
私は大衆居酒屋に好んではいる。気取らない雰囲気が好きだし、一人できても別に目立たない。喧嘩が始まりそうな殺伐とした雰囲気も嫌いじゃない。
大衆居酒屋には大体テレビがある。暇をもてあましたおっさんのための慰みなんだろうと思うが、如何せん大衆居酒屋ではテレビの音声が聞き取れない。スピーカから放たれる音声は酔っ払いの嘲笑と怒号にかき消される。大体私はそんなにテレビをみないし好きでもない。そうすると、テレビでは時間がつぶせない。酒場の喧騒に嫌気がさしてデジタル耳栓を突っ込むと無音の壁に包まれて疎外感がひどくなる。
暇で、寂しく、孤独だ。
そんな中でできる事といえば、こうしてブログやら小説やらのテキストを書き散らす事しかないことに気付く。
気がつけば私はこうして誰のためかわからない文章をつづることしか能がないわけで、つまり自分自身の存在価値を喪失している。「誰のためか分からない文章」などと言っているのがその証拠だ。人間は誰の役にも立っていないという無力感のなかで自信を持てるほど強くはない。自信を失い、アルコールで鈍った頭が私をネガティブの深井戸に落とそうとしてくる。
書いても苦痛、書かなければ自らの怠惰が苦痛。前にも後にも進めない、戻れない。前にも後ろにも進めないのなら、xyz軸のどこへ向かうのだろう。とにかく人間は変化を嫌う割には一か所にとどまってるのが苦手な生き物だ。だからきっとよくわからない方向に私もすすんでいくのだろう。

さて、結局は私は何が言いたかったのだろう。この文章を書いているうちにハイボール三杯を消費し、酔いもほろろである。おとなしく帰って寝よう。人生は意味もなくこうした虚しさや悲しさに唐突に包まれるものである。大した事はない。酒を飲んで忘れてしまおう。
飲みすぎには注意。頭が痛くなるからね。

腰が爆発する

腰がいたい。ひたすら痛い。あちこち体が痛くて難儀する。図体はでかいからそうは見えないだろうが、私は結構体が弱いのである。

テクノをメインで流す事で有名なクラブ、渋谷wombで夜を踊り明かす。機械が奏でるリズムに乗って私は狂ったように飛び跳ね、体を揺らし、腕を突き上げる。

単純な話だ。波がひくように徐々にリズムは弱くなっていき、聴衆は、波が戻ってくるのを静かに待つ。そしてDJが「盛り上げてやろう」と言わんばかりに図太いドラムとリズムが高らかに響き、聴衆は熱狂し、陶酔していく。それの繰り返しだ。
昔からそうなのだが、私は何をやっても心から熱狂した事はなかったと思う。大体後ろの方で冷めた自分が馬鹿騒ぎしている自分をあざ笑っている。
寄せては返す波のように単調なリズムの盛り上がりにまんまと乗せられて、歓声をあげるが、一方で、スピーカーで大音量のリズムを流せば思った通りに盛り上がってくれてしまう自分を馬鹿馬鹿しくも思っていた。
まるで効率の悪い機械のようだ。人を操るために最新の機器と大型スピーカーを用意し、大量の電力で大音量の音楽を流しているわけだが、それでできるのはせいぜい飛び跳ねたりさせる程度だ。アダプタやら変換器やらをしこたま接続して作ったできの悪い機械のようだ。入力10に対して出力0.1、そんな感じ。しかしできの悪い機械だろうが、音を流せば思惑通りにしっかり踊ってくれる私とはなんなのだろうな、とも思う。

会場には日本人以外の外国人が大勢いた。半分くらいが外国人だろうか。薄暗いので自信はないが、ほとんどか白人か黒人である。つまり欧米系の方々とお見受けする。
どうも彼らのダンスは日本人よりも軽妙に見える。動作が早く、大きく、なのに軽さが感じられる。体幹が発達しているのだろうか。それとも単純に日本人より踊りなれているだけだろうか。
日本人の踊りは昔からあまり激しくない。阿波踊りも郡上踊りも盆踊りも日本舞踊も足の動きはそれほど激しくなく、手の動きで見せる踊りだ。(よさこい踊りは日本の踊りの中では比較的激しい踊りではあるが、1950年頃に誕生しているのでそれほど古くはない)
日本の踊りの中で唯一跳ね回って体を大きく動かすのは我が故郷青森のハネトくらいのもんである。
外国人と日本人では体のつくりが違うのだろうかなんて事をぼんやりと考えていた。
そんな外国人に負けねぇとばかりにハネト根性でがんばってはねる俺。

膝と腰がやられた。膝の痛みは一日寝たら引いたが、腰の痛みは2日目に来た。腰が爆発しそうだ。腰が痛いと本当になにもできなくなる。さすが、月に要(かなめ)という字を書くだけはある。
なれないことはするもんではない。今度からははねずに体を揺らす程度にしておこう。

世界のスピードについていけない

PCの調子が悪いからサポートへ修理に出したという記事を書こうと思ったらもうPCが帰ってきて世界のスピードについていけないと思った。
最近どうも記事を書くスピードがとろくて仕方がない。

40000mhaの超大容量モバイルバッテリーを購入したが、三日で壊れた。大容量過ぎたのか。
返品には応じてもらえるもよう。激安でしかも怪しいメーカ製だったので返品きかないのではとビビッていたがそんなことはなかった。

家で酒をほとんどのまないのだが、色々な方からいい酒をもらって有難いのだが最近持て余し気味。早く飲んでしまわないと申し訳ないのだが。
鍋島とか田酒とか買おうと思ってもなかなか買えないってのに。

ある企画でシナリオ作成とキャラ設定(1名だけ)をする事になったが、魅力的な女の子にしなければいけないのだが、なぜかくそ頑固で我が道をいくキャラで掘り下げてしまっている。ヤバい、俺にしか需要がない。

幾度もチャレンジして失敗している抗鬱剤の減薬にとうとう成功しそう。薬をカッターナイフでギチギチと削りとるように少しずつ飲むと離脱症状が大分緩和されてきた。もっと早くそうすれば良かった。

肩こりがひどい。神経ブロック注射を本気で考え始める。ちょっと怖いかもなんて思っていたが、昔から「肩だけサイボーグにしたい」とか思っている人間が怖がっているのも滑稽だなと思った。でも麻酔がなぜ効くのかは現代医学でもいまだに完全には解明されてないんだよな。
まあ、仕掛の虫歯治療が終わってからでも遅くはない。体のあちこちを削られたり刺されたりしている今日この頃。
毎回治療のたびに痛くてたまらない。至って普通の治療だと思うのだが、ヤブなのだろうか。いい歯医者の見分け方を知ってる人がいたら教えてほしい。

コロリベのエピローグは下書きは最後まで書いたが推敲の気力が立ち上がらない。終わらない物語は私にとって呪いのようなものだ。終わらせずに放っておくと「なぜ終わらせないのだ」という強迫観念におそわれる。解決策が一つしかないのは重々承知しているのだが。

デジタル耳栓

耳栓がほしいなぁ、と思って色々探していたのだが、家電量販店でこれが良かったので買った。

耳栓にしては高いのだが、しょうがない。かなりニッチな製品だ。
仕組みとしてはいまやすっかりおなじみになっているノイズキャンセリング機能を耳栓に応用したものなのだ。ノイズキャンセリングのイヤホンとか使ったことある人はどんなもんかすぐ想像できると思う。

耳栓の役割とは騒音の遮断であり、その観点でいうとデジタル耳栓は欠陥製品に近いともいえる。遮音機能は実に大した事がない。
しかしこの「大した事のない遮音機能」こそが本製品の最大の特徴である。

低くうなるような音は軒並みカットしてくれるが、人の声や電車アナウンスなどは少し遠く聞こえる程度だ。むしろ雑音が遮断されてるのでクリアに聞こえる。

装着した時の感じを例えると、「世界に見えない薄皮がかぶさった」という感じだろうか。音の刺激はカットされ、環境音はソフトに聞こえる。そういう意味だと遮音というよりは「減音」と言ったところである。
なんとなくこの感じがここちよく、気がつけば毎日の通勤時と就寝時に使っている。

周囲の音はうるさいが、無音になってしまうと色々まずい、という人にオススメである。
果たしてそんなニーズがどこまであるのか。 ニッチすぎる製品なのは違いない。

ストライクフォール 長谷敏司著 を読む

長谷先生の新作が出た。6月17日発売だが、電子版は24日発売だったので少々待っていた。で、買ったその日の内に早速読んだ。

長谷先生はTwitterで「ラノベでも宇宙くる」とか言ってて、「先生は大丈夫なんだろうか」と人知れず心配していた次第である。

本作は宇宙物である。スポーツ物である。ジュブナイル物であり、家族の物語でもある。

読んでみてどうだったかというと、言ってしまえば一日で全部読んでしまうと言うことは文句なしに面白かったという事でもある。
で、これから述べる以下は読書感想文というよりは自分のためのメモだ。とはいえネタバレは一応慎む。

本作はSFだが、ごりごりのハードSFというよりは物語の骨子としてはスポーツ物の本作を引き立てるためにうまくSF要素を活用しているように感じた。
しかしハードSFではないと言っても科学要素が適当かといえばそんなことはなく、深い造詣を感じさせる。科学要素の描写は非常に難しいのだ。分かってもらうように書かないといけないのだが、書きすぎると冗長だし、簡潔に書きすぎると伝わらない。そのあたり、サラリと書いてあるのに伝わるし、くどくもない。SF作家として経験をつんだ氏の筆力に舌を巻く。
最初から最後まで筆力を見せつけられたような一冊だったように思う。読んでいるとクセになるようなドライブ感のある文章ではないのだけれど、簡潔でありながらストーリーは深く展開していく。テンポに関して特定の箇所だけ間延びする事なく、非常に高いバランス感覚を終始保って緊張感を持ちながらストーリーをつないでいく。
ダイナミックなストーリー展開と、テンポのよい科学描写が心地よい。

本作は続刊を前提にして書かれているので、ストーリーの展開はこれからも続いていくのだろう。この第一巻について、物語構造は非常にシンプルだ。「ストライクフォール」という競技をテーマに、それに打ち込む兄弟を軸に話は展開していく。
ところで、この兄弟の関係性は非常に既視感がある。兄より優れた弟、弟に劣等感を持った兄、そして二人の間で揺れる幼なじみ。これって、タッ……ゲホゲホ。おっとついつい、呼吸を止めて一秒、真剣な目をしてしまった星屑ロンリネス。

さて、
目新しい点はあまり感じられないのだけれど、物語をつづっていく技術力がとにかくすばらしい。さすがプロだよなぁ、と一人の書き手としては格の違いを見せつけられて少々落ち込んでしまう。
本作はロボット物だが、ロボット物を小説でやるのは非常に難しい。理由は言わず物がな、漫画やアニメ等のビジュアルのメディアで発展してきたロボット物を活字で表現するのは困難を極めるからだ。
後書きを読むとその辺も工夫を凝らしている事が分かる。アニメや映画で表現しづらい距離感や速度にクローズアップした軌道バトルを描いている。軌道バトルは活字で描いてもなかなか絵が浮かんでこないのだが、活字では緊迫感を表現しやすいのだ。個人的には秋山瑞人先生の「猫の地球儀」のスパイラルダイブを思い出したりしていた。

続刊が出たらゾンビのように何も考えずに買ってしまって、面白くて、落ち込むのだろう。ああ……

ラノベで宇宙、ほんとに来るんすかね?

vimのキーバインドライク

この間aiharaにあったときに、執筆環境はvimがいいぞと進められる。
vimの詳細はググってもらうとして、vimの特徴かつメリットは様々なモードを切り替えてショートカットキーを多用することができるというものだ。例えばカーソルの移動をキーボードの中央で行う事ができるので指の移動が少ない。
確かに日々テキストをうっているとカーソルキーへ伸ばす指が疲れたりする。しかし、vim自体はどうも使う気が起きない。普段テキストエディタは秀丸を使っているのだが、これが便利すぎて移行する気になれない。
一方私のメインの執筆環境はWordである。正直好きか嫌いかで言ったら嫌いだが、マルチプラットフォーム対応でルビが使えるのが大きい。とにかく私の小説はルビが多い。

ただカーソルキーのキーバインドはvimライクにすると良さそうだな、と思い、Ctrlキーと組み合わせることでカーソルを動かすようにしてみた。

 Ctrl+H カーソルを前へ
 Ctrl+L カーソルを後ろへ
 Ctrl+J カーソルを下へ
 Ctrl+K カーソルを上へ

他はバックスペースやデリートもCtrlを押しながらのキーバインドで対応したいが、他のショートカットキーと衝突しそうなのでひとまずここまで。実際設定してみると指をホームポジションから動かす必要がなくなったので非常に楽。

一昔前にHHK(ハッピーハッカーキーボード)を使っていた事があるが、アレはCtrlのキーが変則的な位置にあった。(普通のキーボードで言うとCapsLock(英数)の位置)
使いにくいなぁと思っていたが、キーバインドを多用するViやVimやEmacsでは便利な配列だったんじゃないだろうか。

感情はよみとれない

土曜日に知人と飲んだ。大変楽しくわいわいがやがやすごしたのだが、それを素直に書くのはどうも抵抗がある。昔からそうだが、こういう場でそういう事を言うのは苦手だ。(大体相手はどうおもってるんだ? 俺は他人の表情を読みとるのが苦手だから分からない。それに俺が楽しいとブログに書いたら、自分も楽しかったみたいな事を書かないといけないような同調圧力を感じやしないのか)

さて、
どうも私はネットというヤツはとかく悪意にみちているところで、下手なことを書くと蔑んでくるようなやつらばかりがいる場所だと身構えてしまう。そんな事は幻想なんだろうが、自分の感情をさらけ出すことが苦手なのはどうにも直らない。

友人からブログの心得みたいなものを聞かされたが、関心するほかない。私にはそこまで深い戦略はない。ブログには活動拠点プラス近況報告くらいの意味合いしか感じていない。だからただただ適当に書きなぐった記事を乗せているばかりだ。
ただ、その心得をいかすつもりは特にない。私にとってネットコミュニティやそこで知り合った人たちなんて全然信用ならないと思っているから、楽しませようと思って書いた事なんてほとんどない。

ただ、小説は別だ。ブログはどうでもいいが、小説はどうでも良くない。だから常に全力で書き出したつもりだ。
友人には悪いが私のブログに対するプライオリティは著しく低いので、ほとんどの助言はスルーするだろう。
そんな事よりも小説の感想がほしい、そう思う。

自分がひねくれてる事くらい自分が一番よく分かってるよ

「むつ」という悪夢

宮内悠介の「盤上の夜」を読む。
本作は第1回創元SF短編賞山田正紀賞を受賞した表題作に加え、ボードゲームを主題に据えた連作短編集となっている。
題材のゲームは囲碁、将棋とメジャーなものから、麻雀や、将棋の原型となった古代インドのチャトランガや、西洋囲碁の異名を持つチェッカーなど、様々多岐に及んでいる。

特にこの中でしびれたのはチェッカーを題材にした、「人間の王」。実在したチェッカーのチャンピオンをモデルにしたノンフィクション小説となっている。

少し前にある人にこんな事をたずねられた。
『SFは文学たり得るのか?』
私はこう答えた。
『成立します。なぜなら現代にはテクノロジーにあふれており、人のライフスタイルや価値観にも重要な影響を及ぼしています。人の心がテクノロジーでどう変わっていくのかという問いは正に文学だと思うのです』
この考えはいまでも変わらない。

そして私が思うところの文学であるSFとはまさに「人間の王」だと思うのだ。

以下本文引用。


わたしはずっとこのティンズリーという人物について思いを巡らしていた。
半世紀近くも負け知らずで過ごすというのは、どういう気分なのだろうか。
どのような鍛錬がそれを可能にしたのか。
それだけの労力をかけて長年守りつづけたものを、コンピュータを相手に失うというのは、いったい、どんな体験として受け止めればいいのだろうか。
さらには完全解が発見され、ゲームそのものに終止符を打たれてしまう。だがチェッカーは彼にとって、人生そのものであったはずだ。彼は、その後をどう生きたのか?……
すべてが究極の問いである。
ティンズリーとは、まさに、究極の問いに生涯を捧げた人物なのだった。
とりわけ、わたしが知りたいと思ったのは、ティンズリーの余生の部分だった。完全解という形でチェッカーを葬られてから、彼は何をもって生き甲斐としたのだろうか。あくまで、チェッカーに固執したのだろうか。それとも、何か別の生きかたを見出したのか。 いや、語弊を承知で言ってしまおう。
わたしはこう思ったのだ。
この話の裏にいま隠されているもの――それは、わたしたち皆にとっての問いなのだと。


googleのAlphaGoが囲碁でプロ棋士を打ち破ったことは記憶に新しい。AIがプロ棋士を打ち倒したところで囲碁の面白さや価値がなくなるわけではもちろんない。しかしAIが人間を打ち破る瞬間は今後あらゆる分野で起こりうる話だ。その瞬間が目の前で起きたとき我々は一個人としてそれをどう受け止めるのか。まさにそれは「究極の問い」である。

「人間の王」意外にも面白い話はたくさんあるのだが、やはりこのこの話が一番興味深い。


盤上の夜を読んで自分もなんだかノンフィクション小説を書きたいなぁと思い始める。
ノンフィクション小説で重要なのは題材選びである。マイナーであまりしられてはいないが、示唆に富んだ話が望ましい、と思う。
マイナーというわけではないが、最近とある事故が人々から忘れ去られ、風化されつつあるように感じるのだ。
原子力船「むつ」放射線漏洩事件だ。

最初にことわっておくが、私自信も「むつ」に対してさほど知識を持ち合わせているわけではない。ただ、故郷青森で起きた事故という事で多少ならずは興味があった、というだけの話だ。
しかし、これが調べれば調べるほど日本の原子力事業の闇がボロボロでてきて、これは小説の題材にするには重すぎると思ってしまう。

一例をあげよう。
むつが太平洋沖で放射線漏洩事故を起こしたのは、まあ周知の事実だと言っていいだろう。しかし、その原子炉が三菱原子力工業の埼玉県大宮の研究所で製造された事を知っている人間はどれほどいるだろうか。しかもこの原子炉は住民に断り無く設置され、試験運転で臨界に達している。市民からは訴訟を起こされている。原子炉はむつに搭載されるものだったので、研究所からはほどなくして撤去され、住民と三菱原子力工業は和解にいたる。

しかし、1999年におどろくべき事件が起こる。

大宮原子炉跡地放射性廃棄物汚染(wikipedia)

当時の科学調査技術庁の調査で大量の放射性廃棄物が保管されていることが発覚。

放射性廃棄物はドラム缶3万缶以上と保管量は国内施設で最多となっており、保有量も国内全体の52%に及んでいる。
(上記wikipediaより引用)

この放射性廃棄物は核燃料を作る過程で発生した副産物的な物だといわれている。

若干背筋が寒くなる。というのはこの件の場所(現三菱マテリアル研究所)、結構家の近くなのだ。もっといえば、さいたま新都心駅近くで最近リニューアルしたショッピングセンター、コクーンシティのすぐとなりである。

原子力船むつが引き起こした放射線漏洩の線量は微々たる物で、放射線の残留もなかったという。
いっぽう大宮の放射性器物は、新都心と名付けられた駅のそばでまだ眠っている……

という事を小説に書くのも難しいような気がしている。そうでなくても日本の原子力については非常に難しい状況にあるわけで……
うーん……

古本市 is Over/最近の小説

川口一箱古本市は無事終了。
色々知り合いにサポート頂いて、特に問題なく運営できました。関係者の方々お礼を申し上げます。

家の店の売り上げはトータルで20冊超えるくらいかな。
朝からビール飲んでたもんでよっぱらってちゃんと集計してない面倒くさい別にいいじゃないですかそんな細かい事。


小説家になろうのジャンル分類が変更になったので拙作のジャンルを早速変更。
こんな感じに変更してみました。

 ・殺ス・リベレーション     アクション〔文芸〕
 ・死ぬか、壊されるか、選べ   空想科学〔SF〕
 ・影の向こうの、ひかり     ヒューマンドラマ〔文芸〕
 ・クソゲー!!         その他〔その他〕
 ・傷つけられても、傷はつかない 空想科学〔SF〕
 ・白く染まり、花が咲く     空想科学〔SF〕
 ・七色の村           ヒューマンドラマ〔文芸〕

連載小説の殺ス・リベレーションはもうクライマックス。残る所あと数話となりました。引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。


気がつくと書きたいものが山積み。そして書かなければいけないものも山積み。
一つずつやっていこう。